違和感 (7)

6/24 港北の夜 3

今日も、深夜の路上を歩いていて、歩く先の空がオレンジ、というより朱色に染まっているのに気づく。新横浜より、もっと奥かもしれない。何があるのだろう。

この場所に引っ越して半年が経ち、それなりに用もあって周囲を歩き、ある程度の地理を把握したが、近くには特に自分が直接関係する場所が無いので、何か薄い不安のようなものがあるのを感じる。

ただそれが、朱色の空、なのだとしたら、なんだかイメージじゃないな。

まるで何かが燃えているように見える空。なんか薄い。

2008年06月24日(火)

5/26 猫のつづき

何度も通る道、というのは、当たり前だが色々とよく覚えてしまう。一昨日の夜に猫を見た道では、今朝も同じところっで猫と出会った(上り下りは夜と逆だが)。あっちも通り道なのだろう。これからもよく会うはず。

「場所の記憶」と言ったとき、それが他人と共有するものとしてのという意味なのか、自分の記憶に残っているというごく個人的なことなのか、ということを考えてみる。

さっきの猫とのことに戻ってみると、「場所の記憶」の中に動くもの(生き物)が入っていることもあるな、と思う。そうなるとまあその時点で自分だけでは無いかな、と思ったりもする。
ただ、おれはアレよく覚えてるんだけど、なんだ、ぜんぜん覚えてないんだ、そっか、ということもよくある気がする。実際どうなのだろう。

あと写真というのも、自分の記憶が部分的なことを思い返させると同時に、ホント部分的なもんだな写真というのは(もっと右を写せ)、という風にも思うので、なんだか万能なことなどこの世に無いなあ、と考えてしまったりする。今夜は蒸し暑い。

2008年05月26日(月)

5/24 港北の夜 2

今日は駅からの帰り道で、2匹の猫がのどを鳴らしながら(フーッ!ってやつ)にらみつけあっている姿を見た。なんか屋根の上とか塀の上とかでは見たことある気がするけど(マンガの印象かな?)道のど真ん中でやりあっているのは初めて見た。実家の近くでは見たことありません。

そしてその2匹の猫の声を、近づいていって、通り過ぎて遠ざかっていって、という間に聞いていると、ああこれはトラとかライオンとかの仲間だねやっぱり
と思うと同時に、赤ん坊と子供の間ぐらいの声に聞こえてしょうがなくなってきた。
なんでだろ。やはりここが住宅街だからだろうか。

とりあえず、1歳そこらの子供同士がのどを鳴らすのごとくわめき、にらみあいながら、じりじりと弧を描くようにごろごろと床を転がったり這ってたりする様を想像してみた。そんな港北の夜。

2008年05月24日(土)

5/4 港北の夜

つい今、深夜の路上を歩いていた。
奥の空がオレンジに染まっていて、何か不思議だった。

このこととは直接関係ないけれど、深夜の路地を見て回っていると、外を歩くひとの姿が不思議に妙に見える。ここ最近、繰り返し見ている。

2008年05月04日(日)

7/9 静かな空間

昨日の日曜の昼下がり、ZAIM別館 301で「横山良平+高須賀千江子 ダンスパフォーマンス公演」を観る。高須賀さんのダンスは、屋上公演以来。

曇が流れ、日本大通りに面する窓から日が入りながら、静かに進む、写真、絵のような時間。それぞれの身体も、内側から動いていく。

このZAIM別館 301は、先月の酒井幸菜ダンスパフォーマンスと同じ部屋。このときも、昼下がりに窓からの陽光が照らす床の場所が、動く様子と一緒に観た。

横浜では、舞台作品からすればコントロールから外れた、日常空間と上手く付き合うような、溶け込むような舞台/ダンスパフォーマンスの空間を観ることができる機会が増えている。ZAIMだけではなく、BankARTのNYKスタジオでも、このような舞台が多く行われている。2階のギャラリー横のフリースペースでダンスパフォーマンスが行われたとき、外のエントランスで、客席とは違った角度からリハーサルの様子を目にした。隣にあることが示される、空間のこぼれ出す感じが面白い。


AAPAの舞台は、あまり静かな状況にはない。ハードな環境、雑多なものが、無造作に入っている違和感。作品からすれば余計な、集中力の欠ける、溶ける感じのないように見える硬さ。シンプルには、いらないように見えるものばかりだろうか。

ただそこにも、なにか溶け出すような感じがあるということが見えるとすれば、それは良いのだと思う。

横浜での活動が、ここにある感触を少しずつ形あるものに変えていく気がしている。

2007年07月09日(月)

6/14 酢は酢だと言うが

「最近の酢の飲みものってほんと酢だよね」と言うのは、別に間違ってないはずだ。

「最近のレモン飲料ってほんとレモンだよね」
レモンジュースとレモンは違うのだから。ほら。

結局、レモンジュースは日常的に触れているものだから伝わるが、酢ジュースは一般的ではないので(この言葉自体が違和感を感じさせるため)、肝心のイメージを含む部分が伝わらないのだ。

人はイメージを、感覚を伝える手法として普段からよく使っていると思う。
ただ、一般的ではないものが相手だと、この酢の例のように通じなくなってしまう。


「酢はもともと飲料じゃないか」

まあそうだけどさ。つーか、調味料だろ。
かつ物質的に、「酢の飲みもの(酢ジュース)」と「酢」は違うしな。
レモンの場合もそうでしょう?


舞台芸術でのダンスパフォーマンスも、そんなあたりに居るのかもしれない。


2007年06月15日(金)

8/18 染んでる夜

昨日の夜、あと5年ということを思い浮かべた。

あと5年経つと、30になるらしい。
では5年前は? ハタチだ。


当時、こんなんやってきました(20のくせに)みたいなことを、夏に多くの人が入ったメーリングリストに投げてた気がするが、あれはあせらせるためだったんだろうか。今はあの頃から5年未来だが、20から25までの5年は、どんな時間(過去)になるのだろうか。

そんな20より、さらに1年前(2000年/20世紀最後は10代最後の年)
伊藤キム+輝く未来
「生きたまま死んでいる人は死んだまま生きているのか?/抱きしめたい」
を、世田谷パブリックシアターで観た。

その前にもコンテンポラリー系は何度か観てたと思うけど、このとき初めて、作品の意識で観た記憶がある。この1ヵ月前、学内の食堂で伊東キムさんも踊ったイベントを企画した、演劇サークルの先輩に連れていってもらった。その8ヶ月後、Bluetoothについての活動を一緒にしていた後輩を誘い、新国立劇場で「Close the door,open your mouth」を観た。最高だった。


この頃に、いま振り返ると色々なことがあったと思う

・冬頃(2000年の頭)、ボルヘスについてデニーズで話して3人でパフォーマンス
・「20の1年の間に何をやったかで変わる」
・「とりあえずどれもやれるようにしとくことだな」
・学食で「横になっているだけでいいので舞台に出て欲しい」とお願いしたのは、さらにそれから1年後?あるいは1年半後の秋??


5年と1年前なだけなのに、順番がおぼろげ。

記憶、言えば自己認識と記録とは違う。
そんなことを、昨日・今日で考えた。

2006年08月18日(金)

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