見ること (14)

9/16 壁の家

昨日は予定が空いたので、ICCの「ダムタイプ 《S/N》 トーク・イヴェント」に行った。

出演は、浅田彰、高谷史郎、ブブ・ド・ラ・マドレーヌ、高嶺格と、《S/N》 のど真ん中にいた人たち。そしてそれぞれの話が、バラバラで、それでいてそれぞれに面白かった。このトークに出演していた人以外にも《S/N》 には多様な人たちいて、そこから1つの作品と、多くの活動が派生して行われたという当時の実感が、目の前のトークからなんとなく伝わってきた気が本当にした。

この前日の日曜には、こまばアゴラ劇場で「森の奥」のリーディング公演(作:平田オリザ 演出:多田淳之介)を観た。観終わった後、次の用事があったので渋谷まで歩いて向かった。その途中で、松涛郵便局前の交差点に出る道を歩き、壁のようになった廃屋を見た。その写真。

080914_shibuya_syoto.jpg

この家があるので、道幅の拡張ができないぽい。事情は道には書いてなかった。

2008年09月16日(火)

9/13 反町近況報告

岐阜公演も終わり、11月のアサヒ・アートスクエアでの東京公演に向けた稽古が、先週から始まってます。出演者に新しいメンバーが1人加わったので、稽古が新鮮な感じで進んでいく。

ところでAAPAの稽古は、横浜から東横線で1駅渋谷寄りの反町駅近辺のスタジオでやることが多いのだけど、この反町で稽古を始めた1年前と比べて、かなり駅周辺の飲食系の店が充実してきた気がする。今日は稽古が午前中にあったので、昼は皆でまだ入ったことの無かったカレー屋に。辛さ「ハード」がスタンダードと、辛さにこだわりを見せてくれる店だったが、ルーが他とは違う感じで、いい感じだった。最近の反町はあなどれない。

その後、横浜に用事があったのでテクテク歩いた。横浜まで1駅なので、簡単に歩けてしまうのも反町の良いところだ。途中で見つけた建築工事の風景写真を2枚。

SN390038.jpg

SN390039.jpg

AAPAで舞台を作るとき、工事風景に出会うと色々とイメージがわいて楽しい。
あと、人がちいさいところが良い。景色に潜んでいるとことか。

2008年09月13日(土)

5/25 表情を見る

先週、野毛山動物園で行われた、『動物園物語』(作:エドワード・オールビー)が原作の『Zoo Zoo Scene(ずうずうしい)』(演出:中野成樹)を観た。最初に動物園ツアーがあって、園内をぐるぐるとコンダクターの後をついて歩き回り、たくさん動物を見た後に、それまで通ることのなかった見晴らしの良い広場に通され、そこで少し遠巻きに、2人の役者がぽつんと、そしてうろうろと動く様子を眺めた。いま思えば、そのときの自分は動物を見るような目で、その様子を眺めていたのかもしれない。これは、『動物園物語』の作品内容ともリンクする。

が、それ以上に「動物」ということを意識したときがあって、それは最初に10分ぐらいそういったシーンがあった後、客席と舞台があるところに移動し、あらためて芝居を観ていたときだった。役者のひとり(佐久間文利)が犬に話しかけるという話がでてくるのだけど、そのときのその役者の表情が、本当に犬のような動物に見えたのだ。

午後の、まだ日が十分に出ている時間の芝居だった。観客は、劇場外での舞台で何を見るのだろう、ということをふと考えた。
自分は、観客は、目の前のものを、それだけでは見ていないように思う。何か見えないものを目の前のものに重ねて、二重化したものを見ていると思う。


2008年05月25日(日)

1/29 見えない未来

ビジョンの視覚化」という文章を読んで思ったこと。


未来はもう、ひとつの方向から描くことができない。
どんなに小さな単位であっても、ひとりが全てを決めることはできない。

自分の未来は、自分とは別に、ただ流れている。
それは意識も、身体も。
全ては見えないものとしてある。


見えないものを、触っていくこと、感じること。
日々の全ては、それをひとつひとつ、試していることのなのだと思う。

2008年01月29日(火)

6/12 切り取られる

展望台のような場所が気になる。
あるいは、スタジアムの観覧席のような。

人が立ち、カメラが向けられる場所。

ただ、屋根と三方に壁ができている
黒い部屋

2007年06月12日(火)

6/6 視線の先の先

今夜、自宅近くの改札を出て。ものの2秒も無いように思うが、視線の先を少し長く、直線上の他人に向けていると、視線を覚られて振り向かれる。反射的に相手の目から視線を逸らす動作に入り、相手の顔はその後に知覚する。

その時に思う。この人の顔を見て自分が視線を逸らす、意味が出来上がっている。しかし逸らす動きは止めようがない(もう終わっている)

あれは気まずい。

2007年06月06日(水)

5/26 設計図とは(3)

「設計図」について、時間が空いてしまったが引続きエントリー。

この関心を寄せる理由は、前回書いた「ベース/核となるものとしての」という意味と、「(その設計図をもとに)見ることのないものを見る」という、次のステップへの繋がりにある。

「見ること」については、これまで書いてきたなかで関連の強いものがあったので、タグを付けて左上に。クリックでまとめて見れます。まあこれまで「見ること」繋がりでしか作ってきてないように思うので(LFもいま思えばこのエントリーで書いた内容から来ている)、全て関連するといえばそうかもしれないけれど、とりあえず。

見ることの中で更に、空間、時間、身体(間)と分かれ、続いていく。

2007年05月26日(土)

5/2 設計図とは(2)

竹本さんの絵を初めて見たのは、BankARTのNYKがオープニングしたての頃に行われた展覧会だ。それから、ZAIMに入居してから知り合った後、あの画を描いた人だということを知った。

今回のちぇるる野毛は、NYK以来、まとまった展示として作品を観る初めての機会だった。これが、作品展示の様子の一部。

竹本さんの画(「thinking painting」の一連のシリーズ)が展示されている様子を最初に観たとき、なにか浮かんだのだがそれがなにか、まだ上手く言葉にできていない。一度、「クローン」と言っていたときがあった(今年に入って三ヶ月くらい)。けれどそれは周りと話しているうちに、違うなと思い直した。

ちぇるる野毛であらためて展示として観る機会があり、もう一度考えてみたところ浮かんできた言葉は、「設計図」だった。なんども繰り返し書かれるもの、ベースとしての、ということからの連想。「thinking painting」の噴出しの空白と単色での構成が、「設計図」について個人的に考えていたことと繋がる、という感覚もある。ただ竹本さんの作品がそうかどうかということとは別に、「画を描く」という行為においての「設計図」について、気になっている。つづく。

2007年05月02日(水)

5/1 設計図とは

LFが終了し、4月も最後の方は、他のひとの作品をに観にいったりしていた。他のひとの作品を見るのは基本的にとても好きなので、いくつか報告したいと思う。
前は月ごとに、何を観に行ったか主なの10個羅列、みたいなことをやってたりもしたが、いつのまにか続かなくなっていたので(というか単純に舞台が近くなると更新しなくなるわけだが)、違う形で書いてみる。

今日書こうと思うのは、美術家の竹本真紀さんのことだ。この4月に、ちぇるる野毛での作品展示と、ZAIM本館403(竹本さんの共同アトリエ)「竹本真紀となぎゆうや」展を観た。竹本さんはZAIM入居者同士という縁もあり、AAPA+モモンガ・コンプレックス 『できないことは、できません。』 ではチラシデザイン用の画を提供してもらった。つづく。

2007年05月01日(火)

9/21 見てる見てない

前2回の続き。

大きくまとめると、「見ることのない」ところは見ることが不足しているところなので、「想像」でカバーするわけだが、だからといって目を使っていないわけでもない(「視力」としては通用していないかもしれないが、「感覚器」としての目が、何かを捉えている)ようだ、という話がどうやら世間一般にあるらしい。

舞台、特にダンスという舞台表現は、受け手の目の存在が暗黙に前提となっているとさえ言える。ただ、当の表現についてはさておき、この目というのは、「記憶」とか先の「想像」と絡みながら、かなり変なことをしてるなと感じることがある。
例えばこれは、舞台上ではなくて日常生活でのことなんだが、電話をしていて相手の声の感じから、「お腹を押さえてそうだな」「横になっているな」と思うことがある。このとき同時に、相手がお腹を押さえて前かがみになっているような姿や、ベッドで仰向けになっている姿がイメージで浮かぶのだけれど、これは前に相手を目で見たときの(恐らく複数の)姿がもとになって、作られているのだと思う。たぶん。

で、思うのだが、この電話をしている最中に相手のイメージが浮かぶとき、目は「目の前にあるものを見る」という視力とは別の、感覚器か何かの力を(一部かもしれないが)使う存在として動いているのだろう。そしてこれはあくまで実感の話だが、ダンスを見ている時間の目は、これに似た動きをし続けている気がした。長くなったが、そんな話。

2006年09月21日(木)

9/19 感覚器として

今日の日経新聞夕刊の16頁に、丹羽政善さんによる「イチローと視力」題された小論が掲載されている。先日、メジャーで6年連続200本安打を達成したイチローが、20メートルと離れていない三塁コーチのサインを確認するのに目を細める様子を記すと同時に、視力が目標物を捉えるだけでなく、よく聞く動体視力、そして周辺状況を把握する周辺視力も含めて、「感覚器」としての良し悪しの判断がされることについて書かれたものだ。

この「イチローと視力」についての事象は、(一般的な、いわゆる「視力」が)「足りてないところ」で動く、活発な何か、を「感覚器」として言葉に表している様が見える。

感覚という言葉と必ずしもイコールでは無いが、肉体、言えば物体という劣化/減衰するものとの付き合いを必要としている事実に、気づかされることが最近、多い。

2006年09月19日(火)

9/18 見ることのない

家の机の前にある壁にずっと貼ったままになっていた、松山巖さんの「想像力」というタイトルのエッセイの切り抜きを今日剥がし、久しぶりに読んだ。
以下、本文からの引用。

「建築家とは奇妙な職業人である。(中略)
建物が完成すれば、立ち去る。(中略)
建築家は、住み手、教師と生徒、職人たちが見ることのない人々の関係、周辺環境、そして建物の将来を冷静に想像しなければならない」


「見ることのない」とは、どういうところのことだろうか。

「足りてないところ」(不足)のことだろうか?

2006年09月18日(月)

12/12 水平線

少し間が空きました。

眼の方は、日によって調子が違うことがわかりました。
この2回の週末の間に、5つの舞台、1つの展覧会に足を運びましたが、時折片目で見るようなことがありつつも、見ることができて良かったです。

昨日は、鎌倉の七里ガ浜に、舞台を観に行きました。外からの日の光を、遮らない場での舞台。

七里ガ浜の、昼過ぎに着いたときに丘の上から見えた青の水平線、舞台の後に眺めた紫が加わった水平線は、とてもきれいでした。日常と舞台が切れることなく繋がっていることを考える。

お互いに見合うことなく、同じ方向を共に見ること、その視線は、それぞれに泳いでいる。
瞬間には、違うところを見ているのに、同じように感じているのを確認しながら、プライベート(単独)を超える時点は・・・と思いました。ここに住んでいるひとは、今日の水平線をどう感じただろう。

舞台と水平線を見て、眼科と海の、場の違いについて気にかけています。
それは引き続き、明日以降へと繋がっていきます。舞台、水平線、眼科、海。

2005年12月12日(月)

11/26 彼女の手

澤田有紀の新作披露の告知を書いていて、気になり始めたこと。
活動が先、ダンスは後。タイトルは、「恋する私」。

ストレートな作品として結実するか?なるのか?ならないのか?

澤田有紀のダンスが見せる、「常に何かが動いている」様子は今回はどう表れるだろうか。


昔読んだ、文章(ミラン・クンデラだと思う)のメモから。

「彼は動かずにじっとしていた。(略)彼は敏捷さにあふれる彼女の動作を眺めていたが、そんな敏捷さが彼女にあったとは知らなかった。彼女の言ってくることは聞こえないが、エネルギッシュに上下する手が見えた。その手が彼女の手だとはとても思えなかった。それはだれか別人の手だった」

2005年11月26日(土)

Copyright (C) 2004-2010 AAPA. All Rights Reserved.